セドナメソッドするまえから、内観をやっていた。
でも私にとっての内観は、霊能力者から指図された「不幸になるための」作業だった。
不幸な人ってやっぱり他人も不幸にするんだな。
私はその霊能力者は仕事があって結婚していて幸せだと思っていたのに、
私に頭の良さで嫉妬してきたり、不幸になるように仕向けてきたりして、
それをいいことみたいに思っていて。
私は誰も「私の母親を演じてください」なんてお願いしていないのに、
お金を払って、5年間、自分を霊能力者のために不幸にしてきた。
もっと広範囲で言うなら、私の幸せに嫉妬した人たちのために、
私は<がんばって>不幸になってきた。
怖いから、不幸にならなきゃいけないんだと思って、
彼女たちは幸せを享受(できないだろうけれど)して、
私を不幸にして楽しんでいたことに、5年間毎日、憎悪した。
霊能力者に通じた神や宇宙人や天使がなにもしないことに、
私はそういった存在に吐き気を感じた。
神とか宇宙人も結構勝手で、自分たちの思う通りになると思っている節がある。
だから人選ミスをすると、霊能力者だけじゃなくて神や宇宙人ってものも、
霊能力者を通して人間をコントロールしてこようとするふざけた存在に感じる。
ただまあ、霊能力者:霊能力で仕事をしている人が、ほかの人に対してそういうことをして(神に従えとか。でもほんとうは霊能力者のために従って貢げと神を利用しているだけ…)、
その結果、神も宇宙人も制止しないので、なんじゃこいつらは!と
見えない存在の評判が彼ら自身や人間の行いによって無限に落ちる。
ちょっと礼儀知らずだよなって人間の目線から観ると私は思う。
あのー神だからって何でも許されると思わないでくれます?
って言いたくなる、いやほんとうに。
ただ、私がそういった見えないものに不寛容になったのは、
霊能力者が「よかれ」とかふざけた言い訳して私に不幸になれ不幸になれと強いて、
私は恐怖心から従わなきゃいけない、コントロールを受け入れなきゃいけない、
不幸になって喜ばせなければいけないんだと、
恐怖で人を動かす不幸な彼らのために<なにかしよう>と思って、
私はバカ正直に5年間ずっと自分を不幸にし続けていた。
<なにかしよう>と思うことはすべて、恐怖だ。
制御、安全、承認は、すべて恐怖から生まれている。
分離や一体感は基本的にほかの欲求開放で手放されていくと書かれているので、私はこの三大欲求を集中的に解放している。
相手への恐怖から<なにかしよう>と思っていると、
この三大欲求にひっかかる。
性的暴行犯がいかに狂っていて異常かもセドナメソッドで発見する。
恐怖が過ぎて、私は性犯罪者を愛さなければいけないが、
ほかの人に愛されてはいけないし幸せになってもいけないという、
とんでもない恐怖の呪いがかかっていた。
恐怖が過ぎて、私はこいつを愛そうとしていたし(狂気の沙汰)、
こいつに認められなければと命まで握られている気分だった。
同時に、殺されてしまってもしょうがないと命を投げ出して、
この性犯罪者というイカれたやつの恐怖心にくじけていた。
生死の主導権まで明け渡してしまっていたことも気づいた。
ほんとうに、人間もどきってクズだな!!!!
でもセドナメソッドは私にとっては救世主。
ほんとうに死んじゃうところだったし、
ずっと霊能力者が怖くてずっと自分を不幸にして、
霊能力者が怖いの延長線で神や宇宙人や天使も龍神も全部毛嫌いしていたのに、
怖いから従わなきゃいけないのかなって思いながら反発していて。
信じていたのに、こいつらは、私の母親等と同じく、私を不幸にして犠牲にして、
自分たちだけ幸せを享受しようっていうクズだった。
私は信じていたはずなのに、恐怖から服従して彼らのために不幸や恐怖を生み出していた。
本当にクズ!レプタリアンの刺客!人間をバカに売り渡すクソ!!!!
人間もどき大嫌い!!!!!
何度も何度も死のうとしていて、
どうしてもこの恐怖の呪いが解けなくて、
神も霊能者も全部嫌で監視されているみたいでイヤで、
死んだら呪い殺してやるって思っていたくらい憎んで憎んで憎んで、
それでも怖くて解けなかったんて知らなかった。
怖すぎて避けていたのかもしれない。
仲間だと思ったのに、生きづらさを理解してくれると思ったのに、
てんで冗談じゃない!狂った腐れ外道だった!!!
さいきん、セドナメソッドの三大欲求を解放するときは、
<なにかしようとする><なにかしなきゃいけない>は恐怖だから、
この対象に、怖いゆえになにをしようとしているんだろう?
何を犠牲にしたり、何を求めているんんだろう?
と問いかけている。
相手が怖いにしても、好きにしても、
<何をしようとしている>のか?
それを根本的欲求の三大欲求を解放するとすぐわかる。
自分が何をしようとしているのか?に焦点を当てると私は解放しやすい。
相手にたいして怖いからしていることがある部分を解放している。
なにかすることはすべて恐れからきている。
なにもしないことが平安だ。
たとえ、いいことのように見えても、実は恐怖だったりする。
動物に触れたいとき、私は甘えたいときなんだと気づいた。
猫を飼いたいと思っていたけれど、私は猫に甘やかして欲しいと求めていることに気づいた。
これはこれで恐れなので解放した。飢えも恐れからきている。
こういう飢えを動物で満たしていると動物が病気になったり弱ったりする。
人間のエゴのせいで動物が弱るのは忍びないので、私は解放した。
おかげで猫にべたべた触ろうとは思わなくなりそうだ。
その代わり、信頼して身を委ねてくれることに安らかさを感じる。
ぬくもりを感じさせてくれることにありがたいと感じる。
べたべたべたべた触ろうとしたり、さみしいからって飼う人って、なんか恐れから飢えているんだな。
猫や犬もそういう人に飼われるっていうのはその個体がそういう人を引き寄せてもいるんだけれど、でもやっぱり、人間ができることは人間で処理して、動物に負担をかけることは避けたいと私は思った。愛玩動物じゃないんだから。
家族だからって負担をかけていいことにはならない、と私は思う。