自分のそれらの映像を、笑って観られる余裕がでてきた。
外から持ち込まれるものは、すべて気分が悪い。
気分が悪いものは、すべて外から持ち込まれている。
それを自分の問題として解決しようとしたり、
深刻に受け止めること、自分ごととして捉えることは、
その恐怖を激化する。それが<エネルギーの活性化>。
そこに意識を集中させて恐怖のエネルギーを与ええれば
恐怖✕恐怖で二倍が三倍、四倍と倍々して活性化する。
そうすると、恐怖を与えたものが大恐慌状態になり、
生物はもう耐えられなくなって死ぬ。
では、恐怖✕喜び、笑いを与えたら?
そう、鎮火する。恐怖が炎だとしたら、笑いは水だ。
ぽっとついた恐怖の火が小さいうちに、
「これは外から持ち込まれたものだ。
たとえ自分が体験したことだとしても、
この気分の悪さは外から与えられたものだ。
体験は自分と関係があるが、
この気分の悪さは自分とは関係がないし、
ホラー映画でも見ている気分で笑うか!」
記憶でパニックになるときって、パニックを自ら起こしている。
メカニズムについて知らないと「そんなことありえねい」と言う。
そんなことは望んでいない、と。
そのメカニズムはすでに説明している。
望む望まずとにかかわらず、エネルギーを与えたものが活性化する。
エイブラハムの引き寄せでもたびたび解説されている。
ぽっと思い出した記憶はまだ火が小さい。
そのちょっとした火に人は恐怖から強いエネルギーを注ぐ。
結果、大豪炎になる。
恐怖を感じている映像に、さらに恐怖の強いエネルギーを一点集中してぶちこむ。
そんなことをしたら、ボヤで済むものに灯油を一気に十缶投げ入れることになる。
だから活性化しているのは紛れもなく、自分だ。
恐怖を喜ばせるために恐怖という強いエネルギーを注いでいるんだ。
恐怖を深刻に捉えたり、そこに集中することがいかに被害を拡大させているか。
いいことをしているつもりで心配したり、恐れたり、
もっと人のことを考えろ!慮れ!というのはまったく逆効果。
むしろ本人のなかで火はずっと燃え続け、なおかつ周囲にも飛び火する。
人のことを考えろという人は火事をうちわで扇ぎたがる無痴だったのだ。
生物は、怖いと思うとそこに一点集中する。
動物が災害に遭うと同じような音や現象に怯えるように、
人間もまた、災害(記憶再現)の恐怖の現象に怯える。
しかし、その恐れて怯える気持ちが自身に持ち込まれただけの恐怖に与えられるエネルギー量ははかりしれない。
だから私は笑うことにした。
笑えば鎮火する。
また、私を恐れさせて、強いエネルギーを搾取しようとする存在に気づけるから。
いるんだ。私達の心にある恐れを浮上させて、強いエネルギーを回収しに来る輩が。
不思議だと思わない?
意図していない記憶がなぜか自然と浮上してくるなんて。
こういうときに、笑ったりおもしろく「映画気分」(外側の問題で自分の問題ではないので解決もやめておく)として対処してしまえば、やがて私達のなかの恐怖も沈下して消えていく。
恐怖に対しては<なにもすることがない>
外側から持ち込まれた問題を解決しようとすると、
「こいつはどんどん外の問題を解決しようとするぞ!
エネルギー回収できるぞ!みんなたかれー!!」
ってやってくる。そういうエネルギー回りになる。
ごみ処理施設になりたくないなら、嫌なことほど笑って済ませる。
気分が悪いことは外から持ち込まれる。
それは外の問題で、外の人が解決すること。
自分の内側の問題ではない。
持ち込まれていたとしても外から勝手に持ち込まれたもの。
手放すのは、解決しようとする気持ちや恐れだけ。
自身が体験したからといって、自分が解決する必要がない。
受動的な態度(〜してほしい、〜だったらいいな、〜しなきゃいけない、だって決まりだから)は自動的にゴミを受け取ってしまう。
自分はこうするという能動的な態度(自分は〜する、自分は〜を断る、自分の気分で生きると決める、他人/外の主導権を手放して自分の主導権だけ握る)なら外から持ち込まれるゴミはどんどん減って、楽しいことがどんどん増える。
責任のないことは放置するに限る。
内側で何が起きても、「なるほど、へー」で終わらせると、私は楽だ。
なにもすることはない。
なにかしようとすることは恐れだ。
恐れに恐れを与える行為だ。
死にたいなら別にいいけれど?(笑)
自分に無関係の外のことを解決なんてすればするほどゴミが押し付けられる。
それは人生に対して受動的だから自動的にゴミ処理していることにも気づかなくなる。
けれど、内側に持ち込まれた恐怖に恐怖で対応しなきゃいけない決まりはない。
喜んだり面白がったりしてはいけない決まりはないからな〜。