スピリチュアルやっていれば感情表現しなくていい、
何をしても大丈夫、って思っている人が結構いるんだな。
スピリチュアル好きもスピリチュアル嫌いも感情表現ド下手くそが多い理由はこれか。
感情がわかっていない、感情表現の仕方が他人に向けて発散することばっかりだから、怒りを出せば怒りが返ってくる。それだけだよな。
それで被害者面するのはまったくスピリチュアルも心理学もわかっていないことを自ら立証してしまっている。
それではスピリチュアルとは言えない。私にとってのスピリチュアルはそれじゃない。他人をゴミ箱にすることじゃないし、私をゴミ箱にされることじゃない。
お金や恋人、仕事や学歴、業績に家庭、それを感情のゴミ捨て場にしていても根っこが残っているならまた生えてくる。
それを暴力暴言に吐き出しても、そこらの枝を剪定しているだけで、幹ではないし根っこでもない。
だから暴力が起きるし、育児疲れが起きるし、すぐにぐずるからってモノで黙らせる親も多い。それは親自身の感情表現が死んでいるからだ。
うざったいからモノで黙らせている内に、イヤイヤ期がきて困るんだ。
なぜならイヤイヤ期はこれまでためこんでいた怒りやむかつきの発散を学ぶ時間だから、制御したり思い通りに親が動かそうものなら、劣化のごとく抵抗するだろう。
それを邪魔したりするから思春期が来てギャーギャー暴れ出す。
それが感情表現がまったくできていない証拠だったんだ。
幼児期から怒鳴ったり制御されたりして育った子供は個々の表現が全く育たずに、怒りを別の方法で出しはじめる。
こればっかりは親の責任でもあるが、いい年になっていたら自分から学ぶことができるんだからそうするしかない。
でも、そもそも50代40代の成人ですらその方法を知らないから、探す方は困っちゃうよね。金払ったのに60代でも感情表現がわかっていない人がいて、参っちゃった。
とくに怒りの表現を「他人をゴミ箱にして吐き出している」
人がスピリチュアルでもかなり多い。まあスピリチュアルと人間は「別」ですからね。
あくまで人間は人間で、感情があってその表現を学んで、それを生かして引き寄せなり自己実現なり願望実現を行っているわけで。
ただ金を引き寄せましたーなにしましたーじゃダメなわけだ。
そこに感情がわだかまっていなくても別のところに根っこがあるなら問題は常に周辺に生え続けているからね。
スピリチュアルといいながら建前ばっかりでカンシャク起こしまくっている私みたいなのは他にもいっぱいみてきた。
みんな、感情表現度下手くその極みだった。
スピリチュアルを標的に怒りを出す人もいれば(ビジネスでも心理学界隈でも)、
スピリチュアルをやっていて怒りを人にむき出していることに気づかない人も結構いる。
そうやって気づけたのは自分はいつも他人のゴミ箱になってきて、
我慢して他人のゴミを自分が受け取っていたから。
それがとうとうゴミ箱が破裂して「死ね!!!」にまで発展したから。
だからえらそうなやつほど怒りの発散がド下手くそ。
なんかそれっぽいことを言っていても人を見下す人も感情表現ド下手くそ。
子供がぐずるから〜って泣くことや怒ることを抑えつけるバカなやつも感情表現を他人にしがちなど下手くそ。そうやって子供に向かっていつも発散しているから虐待=怒りを子供にぶつけることが癖になっていく。
そりゃ気持ちがいいでしょう、感情表現は気持ちがいいから。
でも他人にだしたものは必ず、「どこからか」返ってくる。
自分かもしれないし、第三者かもしれない、とんでもないところから思いもしない結果で返ってきたりしている。本人たちが感情表現をしらないで使っているから、気づいていないだけ。
私のメガネが壊れたのも不可抗力(紙の上に置いておいたメガネが扇風機で紙ごと吹き飛んだ)だったけれど、ああこれも私の怒りの表現だなと気づいた。
他人のことばっかり気にして、こんな事書いたら他人にとってよくないと思ってずっと避けてきたからこんなことになった。
ただわかりもしないで創作活動に専念していたところで、どうだったのかなとも思う。
発散している、という意図なしにやってもどこかでわだかまり、根っこが残ってしまうもの。
それが原動力だ!って人もいるかもしれないけれど、その根っこが自分を傷つけているなら話は別だろう。表現の活動にも支障をきたすし、表現活動の寿命にもかかわっているんだから。
人にぶつければ返報性によって必ず返ってくる。
相手が我慢しているだけで、何十年経ってからやり返されることもある。
なにも目に見える方法だけが怒りの表現じゃないしね。
でも一番スッキリするのが目に見える表現だと大多数の人が思っているんじゃないか。
私もそうだったし。
セドナメソッドの本は言葉足らずでわかりにくいけれど、安心して感情を解放して楽になる場所を自分で用意できる方法だったんだ。
人や自分に吐き出していた「ド下手くそな感情表現」をもう一度練習して、解放して、すっきりする方法だったんだ。感情表現をしてもいいと自分に許可できる方法だったんだ。
これはいいですな。
実際、ああそうか「解放」って感情表現しようねってことなのか!って気づいたら、セドナメソッドを始めて2ヶ月弱たってようやく「解放」することがわかった。
いままでずっと頭で解放し続けていたようだ。
だから解放したら、欲求に横線を引こうね、だったんだ。
私は答えを見つけることが解放になっていたけれど、
感情を表現することが、感情を表現してもいいと許すこと、それを感じることで出すこと、感情表現が解放だったのだな。
泣沢女神のカードはこの感情表現を表していたのかもしれない。
逆位置で出ると「落ちる」から「浮上する」「昇る」になるから、感情を浮上させて外に涙=表現としてだしましょう、ってことだったのか。
天照皇大神カードは、影を影として受けれるだから、感情はそのまま受け入れるってことかもしれない。
怒りでも憎しみでもそのまま「出す」・・・人に出しても自分に向けても危ないからセドナメソッドみたいなものを使って、安心安全に出す。
そのままだしていいしどんな感情もOK、でも表現して一度出そう、と。
大山咋神がなんどもでたとき、仕事の過小評価って書かれていたのがずっと気になっていた。
私に照らして考えてみると、たぶん、創作活動や表現活動の過小評価、だったのかもしれない。感情を出す仕事を過小評価していないか、みたいな感じ、かな?
創作活動もセドナメソッドと同じように感情を整理する場にもなるし、自分の感情を過小評価して、こんな感情を出してはいけないと思っていた、こんなものは創作活動二不要だとか、こんなことを出した創作物はダメだとか思っていたのかもしれない。
感情表現は、人を「喜ばせる」のか?
私の感情表現をストレートに出した作品が人の感情も動かすのだろうか。
それは気分がいいことなんだろうか。
私にとっては気分がいい。でも人にとっても気分がいいことなんだろうか。
そういえば石田衣良って男性の作家が言っていたな。
感情を感じたいって。うまい文章じゃなくて、感情を感じたいって。
それは石田衣良さんが感情が動きにくいから原稿で心が動くと嬉しいのかもしれないし、
ふだんから感情が動かないからより一層感情が動くことを求めているのかもしれない。シンパシーって、感情が動いた一体感だ。動かない感情じゃなくて、それぞれが動かした感情が一体化した感情なんだよな。オーロラみたいに。
うまい絵だけの漫画って感情が動かなくて嫌いなんだけれど、ちょっと絵が下手でも感情が動くと好きになる。またその人の作品を読みたくなる。
でも感情が動かなくなってくると読みたくなくなる。
音楽も、音楽以外のところから音楽って生まれる。
落語も、話の緩急やうまさ以上に、話し手の感情の緩急や間がおもしろくしてくれている。うまくやろうとするよりも、感情を感じられると私達人間の心も揺さぶられて「気持ちがいい」のかもしれない。
たしかに私も、作品を通して感情が動くと気分がいい。
それがなんであれ、どんな感情であれ、感情が動くとでてくるから、それは気持ちがいい。
あれを一体感というのなら一体感なのかもしれない。共感がほしいのはこの一体感がほしいからなんだろう。
怖いでも悲しいでも美しいでも、嬉しいでも怒りでも、動くとでてきて気分がいい。
泣くと気分がいいのも感情が動くからだ。
スポーツ観戦が気分がいいのもこれに当たるし、スポーツそのものにも動きがあるから、自然と感情も動いている。動きたくない人っていうのは感情を動かしたくない、感情を感じるのがよっぽど苦手になっているのかもしれない。
ゲームって自然と感情が動くから、だからやりたくなるのかもしれない。
甘いものを食べても感情が動くし、それこそ暴力を振るっても感情が動いて気分がいいと感じるんだから…。
だから感情を受け止めてくれる対象をほとんどの人が探し求めて、そこに吐き出したい、ぶつけたい、安心安全に受け止めてもらえたらスッキリするのにって思って、感情を出せるものを目を皿にして探しているんだよな・・・。でもそんなのひとりの人間にやっていいことじゃないし、無理だ。
生き物だもの。それになにより、「感情が死んでいる」人にそんなことできっこない。
自分の感情も動かせない人、動かし方もわからない、どうやって発散しているのかもわかっていないような人に人の感情を受け止める仕事なんて、できっこない。
だって受け止めちゃダメなんだもの。
受け流せないとダメなんだもの。
そうじゃあないから、相談者や依頼者に怒りをぶつけていることも気づかないド下手くそなやつが仕事をしているんだもの。自分にはできるって、技術だけに頼って。
無理に決まっている。人が動くのは、技術じゃなくて感情だもの。
そうか。私の感情表現や創作活動っていうのは、だれかにとって心地が良いんだ。
その気分が心地わるいものでも、心地よいものでも、気分が良くなるんだ。
なぜなら私の気分がいいから。私の感情と読み手の感情が一致すると、シンパシー(一体感、共感、つながっている感覚、感情が動く爽快さ)を感じられるんだ。
そうか、創作活動って偉大だな。なにかを感情から作るって、すごいことなんだな。
私達はその感情が使えるんだ。
それはとてもすごいことで、それを使えなくなっているなんてひどくもったいなくって、感情を小さく評価しているのは。とっても、宝物を泥にかぶせてホコリまみれにさせておくような、そんな行為だったんだ。
そうか。どんな感情でも、誰かと繋がれるんだ。
どんな感情を私が出したとしても、私の感情と誰かの感情が通じ合って、なにかが、一体感やもっとほかのなにかが、もっと生まれるんだ。
そうか、それがつながりか。
感情表現って気分がいいし、偉大だし、だれかとシンパシーをもってつながれるしで、いいことづくしなんだな!